2010年2月2日火曜日

梅が咲き、アバターについて考えた



いま、庭の道路側のが満開です。







庭に出ると、寒い空気の中にふわっと梅の淡い香りが漂ってきて、なんとなくやさしい気持ちになります。







は南側にもあるのですが、こちらはまだ2分咲きといった程度です。

日の当たり方、枝の剪定の仕方が関係しているのでしょうか、すぐ近くであるにもかかわらず、花の咲き方が違うというのは面白いものです。


さて、昨日は映画の日ということで、あの話題にっているアバター3Dを観てきました。

18:05に始まり、終わったのが21時過ぎでした。自転車で茅ケ崎までえっほ、えっほ、帰りは雪の中をまたえっさ、えっさと自転車を漕いで帰ってきました。

上映時間は3時間と長めでしたが、映画に没入していたので「長かったぁ~、疲れたぁ~」という感じはまったくありませんでした。

3Dは映画の日でも1000円+300円です。でも300円を払う価値は十分にあります。

映像が壮大でとても美しく、3Dで観るとさらに臨場感がまし、すごい迫力です。


私は映画を観るときは、映像、ストーリー、キャスティング(俳優・演技)の3つの視点から5段階評価しますが、映像はダントツの5でした。

未知の惑星の生態系の描写が緻密かつリアルで、まるでそういう惑星が本当にどこかにあるかのような錯覚にとらわれます。

イソギンチャクのように触るとさっと葉を引っ込める巨大ならせん状の植物、クラゲのようにふわふわと漂う植物の種、らせん状の翼を回転させて飛ぶトカゲ、闇夜でうっすらと光る植物群、

カブトムシのような頭をもち、威嚇するとカラフルなトサカを広げるトリケラトプスのような巨大生物、原色のカラフルな羽をもつ翼竜などなど、

すべてに魂がこもっていて魅せられてしまいました。


また他に登場するロボットや戦闘機、コンピューターの画面なども過激なほど緻密で、昔あったようないかにも合成した映像という感じがまったくないのです。

これらのメカや登場人物がまわりの原始の景色に完全に溶け込んでおり、まるでそういう現場で撮影したかのような圧倒的な迫力なのです。

ただ、ただ下を巻く圧倒的な映像美となっていました。


キャスティング(俳優や演技)に関して印象に残ったのは、まずあのシガニー・ウィーバーが出ていたことでしょうか。

シガニー・ウィーバーというと、どうしてもエイリアンと戦った女というイメージなのですが、

彼女が科学者として、今度は惑星の住民からしたらエイリアンという立場で描かれているのは面白いと思いました。

ただ自然を愛する科学者なのに、タバコをスパスパすっているというのはなんかイマイチ違和感を感じました。

しかしシガニー・ウィーバーは、こういうSF、エイリアンものによくあってるなぁ~と感じます。

あと印象に残った「人間」の配役は、大佐だったかな?、筋肉モリモリの直情径行の軍の隊長で、笑えるほどハマり役だなと感じました。

メインに出てくる異星人のアバターたちはみな俳優をコンピューターで処理した合成映像なので、

これを俳優として評価していいのか分からないのですが、この生物が美しくて、躍動感があってとてもよかったです。

肌はブルーで大理石のような模様が入っていて、みな鍛え抜かれたマサイ族のよなうスラリした肉体をもっています。

身長は2-3mぐらいなのでしょうか。それぞれにみな個性があります。

猿の惑星はあの時代には画期的なメーキャップだったのでしょうが、もうこれを観てしまうと隔世の感を感じてしまいますね。


さて肝心のストーリーなのですが、展開がありきたりで、もう先が見えていたかなという気がしないでもなかったですが、私はこれはこれでいいと思います。

これはまさに、アメリカがどのようにして築かれてきたかの歴史の再現ですね。ただラストはまったく違いますが。


私はこのストーリーを男性原理と女性原理の衝突として捉えていました。

今までブログで書いてきたように、おおざっぱにいうと男性原理というのは、分離・競争・科学を主体とし、女性原理というのは、つながり・調和・宗教に重きがおかれます。

男性原理の社会というのは、常に成長、発展が求められるのに対して、女性原理の社会は、循環型の社会であり、

前者が常に古いものが新しいものに置き換わっていくために若者(文化)がもてはやされるのに対して、

後者は同じことの繰り返しなので、経験を積んだ老人が尊敬を集めます。


今回の映画は、圧倒的な科学技術で武装した男性原理の文明と、自然と調和して暮らすネイティヴの社会との接触がテーマなのですが、

最後が単純な力の衝突以外に何か解決策はなかったのか、何か新しい知見などが提示されていたらもっと素晴らしいものになっただろうにと思いました。


というのも、アメリカの建国の歴史において、これと同じような展開が繰り広げられ、最終的に戦いとなってネイティヴの方は完膚なきまでに叩きのめされてしまうということの繰り返しだったからです。

でも現在の危機的な地球環境などを見ると、やはりネイティヴのような人たちの生き方というのが、正しいように思えるのです。

映画の中で、アバターたちの世界観が紹介されていました。

彼らの命は「エイワ」という神のような存在から一時的に借りているだけで、死ぬとまたエイワに戻るのだそうです。

このような世界観、生命観を私たちも見直さなければならない、学び直さなければならないと思います。

しかし悲しいかな、自然と調和して生きている人たちというのは、力の上では圧倒的に弱いのです。


私はこれはどこかガンに似ていると感じます。

爆発的な成長力をもつガン細胞は、正常細胞を駆逐してどんどん体内に転移していきますが、結局はその生体自身を死に追いやってしまいます。

それと同じことが今の世界を席巻している男性原理の文明にも言えると思うのです。


私は考えました。

では、ネイティヴの社会と、このような武力に訴える貪欲な文明の利害が衝突したときに、単純な武力衝突以外に、どのような解決策があるのだろうか、と。

ひとつはガンジーのように、非暴力による抵抗を示し、相手の心の中の良心に訴えかけ、相手の良心を目覚めさせるというやり方でしょうか。


他に人間の成長の目標が、男性原理と女性原理の統合というところにあるとするなら、男性原理の社会がネイティヴの社会に入っていって、彼らの生き方を学び、

逆にネイティヴの方も、進歩(?)した社会に入っていきお互いに学びあい、

全か無かという決戦をさけ、話し合いや妥協によってソフトランディングさせるという展開もあるのかなと思います。

ストーリーの初期はそのような設定だったようですが、ラストが話しあいによる穏便な解決だったら映画としては面白味に欠けるということになるでしょうか。


しかしこういうシチュエーションを提示されると、最低限の武力というか、対等に話しをするために対抗し得るだけの武力を持つ必要があるのかなと思ってしまいます。

単純な話、警察などがないところで、自分の家によそ者がやってきて、

「この土地、俺たちが欲しいからくれ」、という話しになった時に、こちら側に相手に対抗できるだけの力がなかったら、ゴツンとやられておしまいです

地球上のネイティヴの文化は、実際そうやって駆逐されてきました。


そういう意味で、現代社会において多くの国が「核」を持とうとするというのもうなづけます。力があってはじめて対等な交渉ができるからです。

遅れて核を持とうとする国を「ならず者国家」などといわれたりしますが、それは単に核をもつ側が暴力的な優位を保っていたいからにすぎません。


今回のアバターのストーリーはあまりに単純で、しかも現実ではまずありえないネイティヴが勝利するという展開で終わってますが、

なんかもうひとつ違った視点を提供してくれるものだったら、という思いが最後まで付きまといました。

しかし現代の文明に即して色々考える材料を提供してくれたということで評価できるかなとは思います。


映画のラストで、「トルーク・マクト」がエイワのもとで生き返ったので、間違いなくアバター2は出るでしょうね。

次にどんな展開になるのか、少しは期待したいところです。


おしまい


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