2009年7月14日火曜日

お酒 ~その2~



アメリカではかつて、お酒を製造・販売することが違法である時代がありました。

日本ではお酒を飲んでも、タバコを吸ってもOKですが、大麻は犯罪となります。

大麻は覚醒作用とともに中毒性もあるそうですが、大麻を容認しようとする運動もあるそうなので、それほど深刻なものではないのかもしれません。

そういう意味でいうなら、お酒もタバコも中毒性があり、ガンや糖尿病などのリスクを高めます。

タバコが良くて大麻がダメな理由はなんなのでしょう。

そのひとつは税金に関係しているという話があります。

タバコは栽培が難しく、政府が管理し、国民を中毒にすることで大きな税収になりますが、

大麻をOKにしてしまうと、自宅などで簡単に栽培できてしまい、税金がとれないのです。

お酒にしてもだいたい発想は同じで、ある程度国民を中毒にしておいて、飲まずにはいられない状態にしてお金を吸い上げているのです。

思考形態はまったくヤクザそのものです。

そういう構造に早いうちに気づいておくと、やめようと思うけどやめられないといった事態に陥らなくて済むのですが、

こういうことをクリアーに説明してくれる人はあまりいないように思います。

というのも多くの大人はすでに中毒されてしまっている側にいますから、、、。


法律というのは遵守すべきものですが、単なるひとつの目安であって、合法だからいいというわけではなく、あくまでも自己責任です。

同様に、草なぎくんの事件のように、違法だからと容疑者、犯罪者呼ばわりするのもどうかと思います。

あの程度なら、社会の規範に十分許容される範囲内のことだと私は思います。

要は外的な規範に寄りかかるのではなく、ちゃんと目を開いて、一つひとつの物事を自分の判断でクリアーにしていくことだと思います。

それは飲酒やタバコに限らず、食べものや生活全般についても同じことで、

あたりまえと思っていたことが、実はそうでないことがたくさんあります。というか、ありすぎるように感じます。

そういう意味で私はなるべくたくさん本を読むように心がけ、別の視点、別の発想を知ろうと努めているのですが、

読みたい本がありすぎて、私の読書のスピードではなかなか自らの興味に追いつけないのが現状です。


本来哲学というのは、日常生活を送るなかでつい考えが近視眼的、惰性に流されがちになるのに対して、

その普段気づかない、あたりまえだと思っているところの思考に焦点をあて、

それを疑ってみる、再検討してみるというところにその本分があるように思うのですが、

どうも哲学というと、誰がああいった、彼はこういったという、日常からかけはなれたものになりがちで、

本来は凝り固まってしまった思考形態を打破して、自由になるためのものであるはずなのに、

逆にそういった権威のある知識で自らを固めて、束縛しまうもの、つまらないものになっているように思います。


しかしたまに立ち止まって哲学をしてみるということ自体は大切で、そのための視点、材料をこのブログで紹介していけたらいいな、と私は常々思っています。


今回取り上げたいことから話がだいぶ離れてしまいましたが、

お酒というのは、アルコールによる脳へのダメージのほかに、カロリーの過剰摂取にもつながります。

だいたい薬をはじめ、精製したもの=毒とおもって間違いないと思います。

たとえば日本酒は玄米から白米にし、その白米をさらに削った芯の部分のみを使って発酵させ、その上澄み液をとったものですが、

酔っ払うほどの日本酒の量を、本来のお米で取ったらいったい茶碗何杯ぐらいのごはんの量になるのだろうかと思うのです。

つまり本来のお米で摂取した場合ではとてもとれないほどの量を、

精製した液体にした場合は容易にとれてしまう、それも頭が麻痺して行くので、際限なくとれてしまう、という恐ろしさがあります。


同様に精製ということであげるなら、

ケシからとれるのがアヘンで、それを精製してくと、モルヒネ、ヘロインとなっていきます。

同じように精製して白い粉になったものを私たちはふつうにとっています。

それは白砂糖で、これも気分を良くする作用とともに中毒性があり、あまり摂取しない方がいいと言われています。

もし砂糖をつかうなら、あまり精製していない黒砂糖などの方がいいそうです。


麻薬には、コカインというのがありますが、あれはコカの葉を精製したもので、コカの葉自体にはほとんど覚醒作用はありません。

私がペルーを訪れた時に、これがコカの葉だといわれて食べてみましたが、ただ青くさいだけでなんともありません。

向こうでは、高山病に効くというわれるコカ茶や、コカの飴まであって、むしろ日本でいう緑茶みたいな扱いです。

緑茶も覚醒作用があり、何十杯と飲むと手足が痙攣してくるそうですが、

要は食べ物はなるべく精製したりしないで、まるごとを食べるというのがいいようです。

というのも、ある成分のみを精製すると、それだけが特化して、それまで全体としてまるくおさまっていたものが、激化して、薬効とともに、副作用がでてくるのです。

この薬の成分の抽出=精製は、科学の特質=専門・分化というのとパラレルで、

科学の抱えている問題をそのまま反映しているともいえるのですが、

これに関しては前にもとりあげたので、ここではこれ以上ふれない事にします。


話しが少しそれましたが、

現代人の食の問題は、その量と質から見直されなければならないと思いますが、量という面ではやはりとりすぎと言えるでしょう。

富栄養化した湖にはアオコが発生し腐敗臭がするように、栄養の取りすぎは、万病のもとといえるでしょう。

前回『葉隠』を取り上げましたが、著者の山本常朝さんは、現代の予防医学にも通ずる視点を指摘しています。







江戸時代にあっても、やはり医療は出てきた症状に対処するのが主であって、

その原因となっている食習慣などを改善するという視点は少なかったようです。


つづく、、、





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