スカートの風―日本永住をめざす韓国の女たち
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呉 善花さんの本は前にもこのブログで取り上げたことがありますが、この本は彼女の処女作です。
韓国人である彼女がなぜ日本に来たのか、
そして様々な壁にぶつかりながらも、次第次第に日本が好きになっていく彼女の心の変遷がとても興味深く描かれていました。
韓国は日本のすぐお隣の国で、同じく中国の影響を長らく受けてきましたが、考え方や美的感覚などが全くと言っていいほど違う事に驚かされます。
私は彼女の最新刊
日本の曖昧力 (PHP新書)
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も読んだのですが、こちらには美的感覚の違いに関して、庭園や陶器などのカラー写真を挙げて説明されていました。
陶器でいえば、日本はすこしいびつな感じのするいわゆる"味のある"形が好まれるのに対して、
韓国はキッチリした形で、しかも金ぴかな感じなものが好まれるのだそうです。
こちらの本は大学での講義を文章にしたものなので(著者は日本の大学教授)、たまに外国人留学生、韓国人留学生に写真を見せて聞いている場面があるのですが、
日本人がいいとするものの意味がわからないのだそうです。
著者自身も、日本に来て初めの何年かは日本的な美がまったくわからなかったそうです。そしてその最後の難関がいけばなだったそうです。
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日本のいけばなの美は、私にとっては想像を絶するものだった。
<中略>
日本の伝統いけばなを見て美しいと感じるようになったのは、日本に来て五年ほど経ってからのことである。
いつ、どのようにしてそうなったのかはよくわからないが、あるとき、いけばなの美はその奥行きにあると感じ、
そこから私の前に突然に美があふれ出てきたのである。
清楚な存在へのいとおしさ、静と動のバランスがかすかに崩れた構成の美、生の花の由来を忘れさせてくれるもうひとつの自然世界、
たおやか・しなやか・すずし・詫し・つまし、など、やまと言葉でなくては形容不可能な古趣の味。
そのすべてが感受できるとは言えないが、今の私は日本の伝統いけばなに、惜しみなく愛情を注ぐことができている。
手前勝手な言い方になるが、伝統いけばなの美が日本を理解する最後の難関として私に残ったのは、その美が日本人の意識の、相当深いところで感じられているからであるような気がする。
p.219-220
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彼女はこのように分析しているのですが、生まれてからずっと日本人をしている私にとってはへぇーそんなものなのか、とただ驚くばかりです。
彼女は、日本で生活しているうちに"いつのまにか"わかるようになった、
というこれまで理知的に色々説明してきた彼女にあってある意味極めて日本人的なあいまいな表現をしているところが面白いのですが、
このような日本的な美の感覚が理解できるようになったのは、日本語を常時話していたせいなのではないかと言っています。
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日本語は人格を変える言語なのである。
このことに気づいている人は韓国人でも日本人でもほんとうに少ないように思う。
人格と言うと気色ばむ人もいるかもしれないが、実際的にはその人の気分を変えるのである。
そして、この気分のなかに「日本」がいっぱいつまっているのである。それを知らなかった私は、確実に「罠」にはまってしまったように思う。
これは実に恐ろしいことである。
韓国語にはそうした「危険性」はない。テクニックとして覚える韓国語で十分通用させることができるからである。
しかし日本語は、文法や言葉の意味をいくら覚えても上達することがない。
ほんとうに上達しようと思えば、意味ではなく「言わんとするところ」を悟るセンスが必要となる。
記号としての言葉ではなく、そのもうひとつ奥にあるとでも言うべき、ある種の沈黙に触れなくてはならないのだ。
そのへんの日本語のあり方に気づいて突っ込んで行こうとすれば、これは日本的な非論理思考そのものをたどることになる。
だから、どうしても理論ではなく、話す相手から伝わって来る気分の流れに乗せられて行く先に、「わかる」という体験をするしかなくなる。
つまり自分の気分を相手の気分に変えなくては、「言わんとするところ」がわからないのである。
この「わかる」体験がある程度習慣となったときに、人はきっと日本人になるのだ。
その寸前で立ち止まることが果たしてできるものなのかどうか ― これが日本語の恐ろしさである。
p.221-222
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と著者はこのようにもの凄い鋭い分析をしているのですが、普段意識していないだけにとても興味を書きたてられるところです。
どの言語でも、それを使っている人たちの思考形態が反映されているので、その言語を使っていれば多かれ少なかれ、その民族特有の思考に染まっていくと思われますが、
日本語は特にその要素が強いようです。
この事に関しては、本書中の
「日本語は受け身の言語である」「なぜ日本人は「~させて下さい」と言うのか」
の二つの章の中でも語られているのですが、
たとえば「泥棒に入られた」という表現は、「泥棒が入った」とするよりも、主語を私にすることで「私にも落ち度があった」という反省や責任の意味が込められているのだそうです。
そう言われて見れば、確かにそうで、これは外国人にしてはじめて気付くことのできる言語にくみこまれた無意識に属する心の働きです。
著者は次のように言っています。
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およそ日本語は、短い言葉の中かでたくさんの内容が語られる言語である。
また、話す相手によって、話される場所によって、同じ言葉でもそこに盛られる意味が違ってくる言語である。
そのために、話されるわずかな言葉のなかに、相手の言わんとする内容を聞く側で探さなくてはならない言語である。
p.199
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また、「~させて下さい」というのも、
「自分の行動は相手にお願いして行うべきものだ」という、無意識の発想
があるのだそうで、
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こうした言葉遣いをしている限り、日本人から謙遜の意識も姿勢も消えることがなく、
したがって、トゲのない柔らかな感覚をもって人と接することができるのは確かなことのように思われる。
またこうした言葉の使い方が小さい頃から習慣づけられるため、相手の真意を思い測ってすばやく引き出せる力が身につき、
また相手を知ろうとする興味と研究心が自然に発揮されてゆくことになるのだと思う。
p.201-202
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日本の文化とは距離のある韓国人であるからこそできた鋭い分析だと思いますが、
それを日本語で、しかも日本人以上に素晴らしい文章で綴っているところがさらに凄いところで、
その文章力・分析力には読んでいてホント舌を巻いてしまいます。
私にとって本には三種類、「下り坂の本」「平坦な本」「上り坂な本」とあって、
「下り坂の本」というのは、いくら難しいことが書いてあったとしても、興味に後押しされて時間の経つのも忘れてドンドン読めてしまえる本のことで、
「平坦な本」というのは、それほど面白くもないけど、読むのにしんどくもない本、
「上り坂の本」というのは、ページが遅々として進まず、また本から吸収できる知識もあまり多くないような本です。
上の分類からいくと、この本は断然「下り坂の本」でした。
この本には続編
続 スカートの風―恨(ハン)を楽しむ人びと (角川文庫)
新・スカートの風―日韓=合わせ鏡の世界 (角川文庫)
とあるので、順次読んでいきたいと思っています。
あ~楽しみだなぁ。
おしまい
参考:
呉善花さんの著作↓
スカートの風―日本永住をめざす韓国の女たち
この本の中身を閲覧する(目次・抜粋などが見れます)
日本の曖昧力-融合する文化が世界を動かす- PHP研究所 2009
この本の中身を閲覧する(目次・抜粋などが見れます)
売国奴 ビジネス社 (2007/10/12)
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帰化日本人―だから解る日本人の美点・弱点 李白社 (2008/11)
アジアの中の日本〔彦兵衛ブログ:帰化日本人を読んで〕
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